国際協議会の中で私が感じましたのは、国際協議会は正に国際ロータリー、色々な価値観をもち、多様性の中にある世界中のロータリーの人達が、一つの目標に向って歩こうとする時に、何を大事にしたら良いだろうか、或いはこういうことをするとそれに早く到達出来るのではないだろうかと、その戦略を伝授するのが国際協議会のような感じが致します。 
勿論細かい、今年はこうしてくれとか、こういうようなターゲットを与えますとかいうような、幾つかの特定なことをその中で付け加えられることは当然でありますけれども、大きな流れとしてあの国際協議会が狙ってることは、正にファジーなやり方で、各人、各クラブ、各地区の方向の違いをそれぞれがそれぞれの地域でそれぞれの価値観、或いはそれぞれのお仕事の持ち場の中での色々な環境の中で、どこを取るかという自由な選択が許されている、いわばロータリー像というのを、多分あの中で皆さんは受け止めて帰ることを期待しているように私は思います。 
もう一つ私が触れなければならないと思っていますのは、ロータリーというのはエリートなんだろうかという疑問です。ロータリーは誰でもロータリアンになることは今の規制の中では出来ません。同時にそうでない所にロータリーに入っている方々にとって色々な意味での魅力が存在すると思います。バッジを付けることが、他の人より高いところにあるというエリート意識であったら、当然それは否定すべきことでしょう。しかしロータリアンになる、或いは同じような形の中で共有したルールを、或いは方向を皆さんが持ちながら、ひとつのグループを作る、その仲間の中に入る選択、その上でのロータリアンというのは、私は当然エリートであってしかるべきだろうと思います。そのエリートという言葉の意味は色々な意味があり、正にこのことはそれぞれがお考えになることだろうと思います。 
時代の流れと共に、その中に出てくる幾つかの歪みが我々のロータリーの周辺には多分あるだろうと思います。正にもう一度初心に返りながら、我々はロータリーというものに、或いはロータリーに関わり、ロータリーとつながっているのだろうかと、優れたロータリアンになるためなのか、優れた地域社会の一人の人間としてか、ロータリーがそれを支える何かを持っているからロータリーに関わるんだと30年近くロータリーに関わっていることを考え、それでも整理しきれない、ロータリーの不可解さを残しているのが現状です。
高野孫左エ門(第2620地区DPG)
(1993年R.C.研究会から)
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