「心に残るロータリアンの言葉」

【第43回】

       

                                  

中井 義尚会員

「私のロータリー体験−その1」                   
 今回は、私なりに私が今感じているもの、或いは私自身がロータリーとどういう関わりを今まで持ってきたかということの紹介をしながら、皆さんにロータリーを考えていただきたいと思います。1982-83年度が第2620地区(山梨・静岡県)のガバナー年度でした。私がそれまでの約20年近いロータリーアンとしてロータリーを感じていた時と、何かロータリーに対する理解というか、何かロータリーがこういうものだったかということを自分で体得する大きな契機になったチャンスでありました。ガバナーという仕事、これは個人が受けた栄誉とかとは別に、多分ロータリー世界の中ではロータリーを別の形で味わい直す大変大事なチャンスを与えられた一人であろうと思います。また今年度の6月までの3年間、R.I.の拡大委員を、また15年間「ロータリーの友」の編集委員長をさせて頂く中でのロータリー感と、拡大委員という立場を通してロータリーの醍醐味を味わわせていただいたことを整理してお話しいたします。
 そこで総括的に感じることは、我々はロータリーの知識が一杯詰まった百科事典のようなロータリアンを作ろうとしているのではなく、むしろ人間としての豊かさ、誠実さ、人間らしさ、こういうものが光るようなロータリーというグループ、いわばそのボランタリーなアソシエーションが一人一人の人間を輝かしい顔で活かしていく上に実に見事な支えにロータリーがあると確信しています。    
 キリスト教には聖典があるとよく言います。じゃロータリーはどうだろうかと、私はロータリーはその聖典がないのがロータリーだと思っています。ロータリーは人を規制し、人を枠の中に入れる、そういうグループではないと思います。我々は、ロータリーの先輩がその言動や言行の中で、我々をゆり動かす或いは感動を与えるようなもの、それは実に沢山ありますが、それを出来るだけ皆で触れてその感動を受け止めるべきだと思います。同時にその中で何を選び何に従うかということは、ロータリーの正にボランタリーな選択以外にないと思います。ロータリーが本当に魅力のある団体であり、ロータリーが活力のあるアソシエーションとして働く時には、こうしたファジーなものでなければならないと思います。そういう方達が集まりながら、そのボランタリーの選択に耐え得る先輩としての、或いは指導者としてのロータリアン像が、それぞれのクラブの中に、地区の中にどれだけ蓄積されているかということが、ロータリーの魅力であり指導力であります。更にはロータリーの将来に向かって拡大、発展させる力ではないかということを私はこの頃感じています。        

                 高野孫左エ門(第2620地区DPG) (1993年R.C.研究会から)