「心に残るロータリアンの言葉」

【第40回】

       

                                  

中井 義尚会員

「楽しい例会にするには」                   
 人の心というものは、普段はいろいろ鎧を着ております。地位とか名誉とか財産とか、あるいは血筋とか学歴とか肩書きなど無数の“自分ではないもの”が心を包んでおります。   
 先ごろ私は、たまたまお茶のグループの五十周年記念のお茶会に出たのでありますが、お茶席には露地の飛び石や蹲やにじり口などのさまざまのしつらえがございまして、そこを通ることによって参会者たちの心を次第、次第に裸にしてまいります。つまり心の鎧を上手に一つ一つ脱がせて行くのです。武士であれば大小を取り去ります。町人であれば心の中の算盤を、このときばかりは忘れ去ります。                   
 お茶席の悦びというのは、こうしてすっかり鎧を脱いで赤ん坊のように裸になった亭主と客とが、一碗の茶を介して心を触れ合い、ひびき合わせる悦びなのです。裸の心を一言で申せば、初心であります。人間の生まれたままの心というのは、ポール・ハリスが自叙伝の中で述べております。「少年の心」と同じものでございます。寛大で親しみにあふれ、人様のためになりたいという素朴な願いがごく自然に魂を輝かせているものです。こうした初心に戻ることができた人々が、ロータリーの例会で語り合うならば、それは巧まずして楽しい例会になるはずでございます。頭の中であれこれと、例会を楽しくするにはどうしたらいいだろうかと考えて、無理に演出したような楽しさを生み出してみても、それは自然に出てきた楽しさでございませんから、長続きしないのではないでしょうか。ちょうど空港で持ち物検査のためにくぐらされるようなゲートを例会場の入口にこしらえてみてはどうでしょうか。その門をくぐる者は心の鎧を何もかも捨てさること、という約束をするのです。こうしてけがれのない、少年のような心になってこそ、例会場がくつろぎの場となり、やわらかい心の交流、お互いの心のひびき合いも実現するのだと思います。それが本当に「楽しい」例会であります。        

          森三郎「私のロータリー」(1991)から。第2570地区(PDG)(寄居R.C.)