「心に残るロータリアンの言葉」

【第9回】

     

                                  

中井 義尚会員

「米山梅吉氏の新隠居論」                   
 人が世に出て所を得るのは偶然でない。機会というものがある。その機会を捉えなければ実力が発揮出来ない。考えてみると機会が3通りあるようである。第一は、千載一遇の機会だ。革命の如きがそれで日本では王政維新の時に来た。所謂風雲に際会した人達は生き残った限り皆豪くなった。何かの関係でその場に居合わせさえすれば大人物になれた。こういうのは、千載一遇だ。今日の人が望むべくもない。第二は、人一代に必ず来る機会だ。私達の生活は、毎日同じようでいて同じではない。一生の幸不幸の分岐点ともなる機会が来る。この好機会を捉えることが大切だ。第三は、日常身辺に群がってくる千種万様の小機会である。これはうっかりしていて見遁し易い。しかし、一個人の生活はチャンスの流れとも言える。どうぞいいチャンスを捉えるように。         
 明治も大正になり、維新の風雲に際して絶頂にあった所謂立身出世の成功率は年を追って急速度で低下している。就職難が来て益々世知辛い。然るに一般的には教育が普及して人間の粒が維新の頃より遥かに揃ってきている。機会が少なくなった上に有為の後進の数が増すばかりだから、老人株は考えなければならない。   
 隠居したら退屈するだろう。こういう料簡は間違っている。人生に退屈するようなものは生きている資格がない。日本では隠居というと全然世の中から隠れてしまうことを意味する。西洋の隠居は世の中と没交渉になるのではなくて、隠居として為すべき仕事を見つけ出す。日本人も隠居を楽隠居の意味に解せず、西洋に学ばなければならない。隠居した人は今まで職務に忙しくて出来なかったことが残っている。それは、人間として尽くすべき義務である。稼業以外、職掌以外に何か社会公衆の為に奉仕するところがなくては、まだ人間としての義務を充分に果たしたとは言えない。        
 西洋人の隠居後に為す仕事はこの意味から社会の為に尽くすことである。これを人間報恩の為と言うも亦可なりであろう。