岸和田東ロータリークラブ 国際ロータリークラブ第2640地区
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〜会長の時間10月〜
 2016年 10月 7日  第1938回

米山奨学生のレ・タム・ティー様、地区米山記念奨学委員の溝西薫様ようこそいらっしゃいました。後程卓話よろしくお願いいたします。
入会予定の小田一法様、ようこそいらっしゃいました。例会を楽しんでいってください。
9月30日に開かれた「ロータリーの友を読む会」に参加して下さいました会員の皆様、企画して下さった広報委員会の皆様、ありがとうございました。
明日、10月8日からは「寒露(かんろ)」です。朝晩の冷え込みがはっきりと感じられる頃になりました。寒露とは、この時期の野草に宿る冷たい露のことです。この頃は、大気の状態が安定して空気が澄んだ秋晴れの日が多くなります。昔の東京オリンピックも晴れの特異日として10月10日が選ばれました。
10月8日〜10月12日は七十二候の初候で「鴻雁来(こうがんきたる)」です。燕が南へ帰る頃、入れ違いに雁が渡ってきます。遠くシベリア、カムチャツカから海を越えてやってきた雁は日本で越冬し、春に北へ帰っていきます。清少納言の『枕草子』にも「まいて雁などの つらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。」とあるように、昔から秋の風景として親しまれてきました。
今月は米山月間です。本日の卓話には米山奨学生のレ・タム・ティー様が「ベトナムの旧正月・テト」のお話をしていただけるということで、楽しみにしております。ちなみに、日本では年賀状に付き物の干支ですが、ベトナムには猫年があります。日本の兎年がベトナムでは猫年です。ベトナム以外でもタイ・チベット・ベラルーシでは猫年です。近年のネコブームから考えると、日本も近い将来には猫年というのができるかもしれませんね。
さて、これは昨年の1月31日の産経新聞の記事ですが、気になってスクラップしていました。ちょうどベトナムからのお客様ですので、いい機会ですからお話しさせていただきます。記事の内容は、松下政経塾の外国人塾生第1号、ベトナム人のチャン・マイ・テー・アンさん(25)の話です。記事の内容は今もネットで読めますので、今日はここで紹介されている『東遊運動(「ドンズーうんどう」、又は「とうゆううんどう」)』のお話をさせていただきます。
http://www.sankei.com/column/news/150131/clm1501310008-n1.html

皆さんは『東遊運動』というのをご存知でしょうか?
1883年以来、ベトナムはフランスの保護国でした。1904(明治37)年に開戦した日露戦争はトルコなど様々な国に影響を与えましたが、ベトナムでも日露戦争に刺激され、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)らによって反仏運動の結社「維新会」が組織されました。彼等が独立のための武器を援助してくれそうな国として選んだのが、日露戦争でロシアと戦っている日本でした。ファン・ボイ・チャウは大日本帝国に渡って武器援助を仰ごうとしました。
1905年4月に横浜に上陸、ちょうど大日本帝国に亡命していた中国( 清)の梁啓超(リョウ ケイチョウ)を訪ね、武装蜂起の相談をしました。そのとき、ファン・ボイ・チャウがベトナムの現状を切々と訴えた内容を梁啓超が書き留めたという形で出版されたのが『ベトナム亡国史』です。梁啓超は日本政府に武器の援助を申し出ることは無謀なことだと諭し、それより独立のための人材育成が急務であると説きました。梁啓超の紹介で当時の日本の野党の指導者である大隈重信、犬養毅らと会いましたが、彼等も指導的人材の育成が重要だとの意見でした。またファン・ボイ・チャウも日本の街を見て歩き、社会を観察して、直ちにベトナムが武力蜂起してもフランスに立ち向かうことは困難なことに気づきました。まず日本にならって知識を向上させることが必要であると考えるようになりました。
ベトナムに帰ったファン・ボイ・チャウは独立運動の若い指導者を育てようと同志を募って民衆からも資金を集め、ベトナムの青年らに日本への留学を呼び掛けました。優れた青年らはこうして日本へ送られました。この運動は『東遊運動』と呼ばれるようになりました。
また、ファン・ボイ・チャウ自身も日本に渡って奔走し、その人生を民族独立運動に捧げました。日本へのベトナム人留学生は1907年には100名、1908年には200名に達しました。
やがて日本にいる留学生らが反仏運動の結社を組織し活動しだすと、危機感を覚えたフランス側は留学生の親族を投獄し、送金を妨害するなどして弾圧を行いました。
1907年、日仏協約が締結されると、フランスは日本政府に対して留学生の引渡しを要求してきました。日本政府はその要求には応じませんでした。しかし、1909年には残念ながら留学生全員を国外に追放してしまいました。こうして『東遊運動』は終焉を迎えました。
その後、日本から追放されたファン・ボイ・チャウは上海に逃れ、辛亥革命後の1912年、広東で「光復会」を創設して武力によるベトナムの解放を目指しました。
明治時代の日本は世界の中ではまだまだ未熟な国でした。開国、不平等条約、明治維新から日清・日露の戦争、そして第一次世界大戦、国際連盟と明治時代の日本は自分の国の独立を維持し西洋世界と互角に渡り合うだけでも大変な時代でした。
しかし、21世紀の日本はもっと違う選択もあるかと思います。東南アジアからの、留学生も増えています。彼らを失望させず、教育の機会を与えてあげられる社会であって欲しいと思います。

 2016年 10月14日 第1939回

昨日からは七十二候の「菊花開(きくのはなひらく)」です。各地で菊の品評会が開かれる頃です。有名な国華園の「日本菊花全国大会」も来週の木曜日(10月20日)から開催されます。10月9日は旧暦の九月九日は重陽(ちょうよう)の節句でした。別名「菊の節句」です。   一番大きな陽の数(奇数)が重なる日ということで、重陽と呼ばれます。ちなみに「五節句」とは人日(じんじつ)(1月7日)、上巳(じょうし/じょうみ)(3月3日)、端午(たんご)(5月5日)、七夕(たなばた、しちせき)( 7月7日)と重陽(ちょうよう)(9月9日)です。
今月は「経済と地域社会の発展月間と米山月間」です。先週は米山月間に関連した話題でしたので、今回は「経済と地域社会の発展月間」にちなんだ話題をお話ししようと思います。先ずは、地域社会の現状のお話です。現状を分析しないと未来の話はできません。
さて、日本の、そして地域の発展に一番影響を与える問題は人口の減少だと考えています。国土交通省がH26.7.4に作成した「国土のグランドデザイン2050」のデータから見ますと、日本の2050年の人口は97,076,000人で、2010年の128,057,000人から24%も減少すると予測されています。このデータから近畿地方の1kmあたりの人口の増減率を見ると、人口の増えているのは都市部と滋賀県の守山市から草津市あたりですか。誰も住まなくなる青い点も沢山あります。もっと拡大して、岸和田市周辺を見てみましょう。岸和田と貝塚の間に人口増加地域がありますが、これは、貝塚の東山地区の新興住宅地でしょう。和泉市の増加している部分は和泉中央駅から桃山学院大学あたりです。岸和田市は人口が減少するのが確実です。少子化・人口流出・高齢化が人口減少を招きます。空き家が増え、地価が下落し、公共施設が減少し公共交通機関が廃止されます。その結果、産業も衰退していきます。最後には、限界集落・無人化となります。岸和田市の場合、大都市の周辺地域なので他とは違った要因もあるのですが、人口が減少すると維持できない施設が増えてきます。その結果サービス提供と雇用の機会が失われ、よりいっそう人口減少に拍車がかかります。
私たち経営者にとって非常に重要な問題です。このような現状から地域を活性化するにはどうすればいいかを次回から考えていきたいと思います。