岸和田東ロータリークラブ 国際ロータリークラブ第2640地区
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制作:資料管理・OA委員会
 

第1678回例会 1月21日(金)

  『 トピック 』

ロータリー財団よりマルチプル・ポールハリスフェローピンの贈呈



              マルチ(2)  藤井秀香、坂本道子、平瀬有里 各会員
              マルチ(3)  坂東桂子会員
              マルチ(4)  杢保正夫、畑田率達、谷口 徹 各会員
              マルチ(6)  大石武徳、加藤寿昭、各会員


  『−江の時代−信長と縁の深い岸和田 』 郷土史研究家 永 谷 裕 久 様 

 私はボランティア活動の一環としてお城やだんじり祭を観光客の皆さんにガイドをし、「岸和田応援団」の一員として自負しております。今年岸和田にとって嬉しい出来事が相次ぎました。
(1)天然記念物のコウノトリが久米田池に飛来し、新聞にも大きく取り上げられました。
(2)宮中の歌会始めの来年のお題が「岸」と発表がありました。岸和田市民の皆さんが「岸」の入った歌をこぞって送ってほしいものです。
(3)NHK朝の連続ドラマの「てっぱん」の次の次が、岸和田を舞台にし、世界的デザイナーのコシノファミリーをモデルにした「カーネーション」に決まりました。
 NHKさんには全国各地の100箇所以上のところから「ぜひ地元を朝ドラで」という要望が届いているようですが、岸和田に決まったことで活性化の起爆剤となりますことを願っています。
 現在大河ドラマ「江」でも信長が描かれていますが、この人は1560年の桶狭間の戦いで歴史の表舞台に現れ、本能寺の変で亡くなるまでの22年間で歴史を大きく変えた人でもあります。亡くなる5年前の天正5年に石山本願寺との戦いの時に岸和田に来た、との記録が「信長公記」という資料に書かれております。これは10年にも渡る本願寺との戦いで支援戦力である雑賀衆を討つべく2月中旬に和泉の国に進駐し、岸和田の神於寺に2日間陣を構えて逗留したもので、その当時の神於寺は神於山一帯に100以上の伽藍を持つ大勢力でもありました。現在でも神於山を歩くと平らになった場所あたりで江戸時代以前の瓦を見つけることができます。山腹には「信長衣かけ岩」という大岩があり、「汗をかいた信長が着物をこの岩にかけた」という言い伝えがあります。山道からはずれたわかりにくい場所にありますのでガイドと共に行かれた方がいいかもしれません。この戦いには部下の秀吉・光秀や後に謀反した荒木村重などが従軍しております。秀吉は天下を取った後にも岸和田に来ておりまして、天正15年(1985年)岸和田城の城主が中村氏の時・・と言いましても当時は砦のようなものでしたが根来衆・雑賀衆を討伐するためのもので、この時の戦いの模様が今もなお伝説として蛸地蔵に残っています。伝説の蛸が空を飛んだり墨をはいて敵を撃退した・・というのはおそらく蛸の墨を固めたものを敵への目くらましか何かに使ったのではないか。と思います。
 また、信長の家臣でありました荒木村重につきましては本能寺の変の4年前に謀反を起こすのですが失敗し、村重の子のひとりが乳母とともに岸和田まで逃げのびました。その後、彼はその地を開発するのですが、その地が現在では「荒木町」という地名になっているとのことです。
 明智光秀はごぞんじのように本能寺の変で信長を倒し、山崎の戦いで秀吉に敗れて土民の竹槍によって命を落した・・と知られております。光秀の首は土中に埋められて5,6日の後に発見された、とありますが実はこれは影武者の首ではないかという説があります。それによりますと光秀は京都の妙心寺に落ち延び、その後泉州に向かった・・というものです。光秀の息子さんの一人と言われる南国和尚という人が貝塚に海雲寺というお寺を建立し、その後岸和田藩主の命で現在の岸和田市五軒屋町に移られて寺号も「本徳寺」と改められました。現在、このお寺には南国和尚が書かせたと言われる日本で唯一の光秀の肖像画が残されております。
 岸和田に来たことのある信長、そして秀吉、村重、光秀といった彼をとりまく武将たちにも岸和田との深い縁を感じることができるのはたいへん興味深いことではないか、と思われます。

                   (卓話担当:安井八州夫会員)