岸和田東ロータリークラブ 国際ロータリークラブ第2640地区
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第1661回例会 9月10日(金)

  『 だんじり昔話 』 〆野淳一 会員

 岸和田祭のはじまりは、元禄6年(1703)岸和田藩主岡部長泰公が京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願し執り行った稲荷祭がその起源であり、祭礼として庶民の参詣を許したのが始まりだと言われている。(だんじりが出たという記録はない)
 だんじりの由来は、延享三年(1746)8月五町(本町、堺町、北町、南町、魚屋町)より「引檀尻」が出された記述が出てくる。これがだんじりの記述としては最初であり、この頃がだんじり祭の始めではないかと言われている。
 そして天明五年(1785)に岸和田北町の油屋治兵衛という世話人が、泉大津より古だんじりを借りてきて曳こうとするも、大きすぎて御城の門を通れず、急遽一晩かかって杉丸太の柱に仕替えて屋根を下げ曳行した。これが今のだんじりの原形であり曳行の始まりであると思われている。
 明くる天明6年(1786)銀三百五十匁にて北町が地車を新調する。この地車が岸和田型地車の第一号だと言われている。その立派で大きな地車新調に際し、必ずクリアしなければならないことがある。それは、城門を通らねばならないこと、いわゆる城入するという事である。これを可能にすべく考案されたのが、屋根の上げ下げが容易にできるカラクリ地車の作成であった。これが岸和田地車の美しい容姿を決定付けるカギとなるのである。
 この時代の地車は今、だんじり会館に保存されている、文化・文政期(1804〜1830)の旧五軒屋町の地車です。
 明治になると城門がなくなったことから、カラクリの必要がなくなり、屋根廻りの組物が増え、腰廻りの彫も立体的になり、豪華になった土呂幕の上になる連子の彫も大小二つにわかれ、四段型式になるのもこの頃からです。
 昔のだんじり祭はだんじりがお宮さんに参るという事は、お祭のことですから本義だと思いますが、当時の大名の力というものは、大変なもので大名のごきげんを取るということも、これまた見逃すことの出来ない事なのです。そこでだんじりはまず、城下町をねり歩いて、そして今の市役所の所のユナカラ坂より上りそこには筋金門があって、そこを通って城内に入るのですが、城内に入りまして極楽橋を渡ってただ今残っております本丸と二の丸との間の道筋を通る。二の丸にはお殿様のお屋敷があって、玄関の前は広々としており、そこを通る時にだんじりは必ずお殿様にご挨拶を申し上げる。
 お殿様は玄関にお出になって、みすの内からだんじりをご覧になる。その時にだんじりは色々面白い芸をしてご覧にいれる。これが1つの大きな行事でした。
 お殿様というのはただいま我々が考えているような生やさしい権力ではなく、絶対独裁的で非常に気ままな人たちが多かったので、1つ2つにわかなり、芸事をご覧になってあきがきたり、面白くなかったらさっさと中へ入ってしまいます。それであとの方にまわっただんじりは、いかに面白いにわかをしてもお殿様にご覧にいれるという事は出来なかった。そのために1番2番という宮入りの順序が非常に争われた。
 お殿様に芸事を見てもらってから、二の丸の前を通って、以前の裁判所の横を通って三の丸稲荷にお参りしました。三の丸稲荷は岡部さんがおまつりしたお宮さんですので、必ずこのお宮さんにお参りする。このお宮さんにお参りして、その前の道を通り今の蛸地蔵駅の方に向うと土手になっており、左手は武家屋敷でこれは俗に南屋敷、岡部頼母という人の屋敷です。北は朝比奈という人の屋敷で南北両屋敷といわれ、非常に格式の高い武士でありました。従って屋敷もずいぶん広く大きかったし門長屋も長かったのです。その前を通りまして、一番東の詰に乾という武士の屋敷がありました。その乾の屋敷の前に南大手門があり、それを乾の辻と人々は呼んでおりました。その乾の辻まで来て、今度はその辻を左にとって須藤さんの前を通り、神明社にお参りして佐々木さんの前を通り、東大手門をぬけて城外に出て、古城川に沿って欄干橋に出ました。こういう道順で城内に入り、宮入りをして城外に出る順序でした。
カラクリ地車の作成であった。これが岸和田地車の美しい容姿を決定付けるカギとなるのである。
 この時代の地車は今、だんじり会館に保存されている、文化・文政期(1804〜1830)の旧五軒屋町の地車です。
 明治になると城門がなくなったことから、カラクリの必要がなくなり、屋根廻りの組物が増え、腰廻りの彫も立体的になり、豪華になった土呂幕の上になる連子の彫も大小二つにわかれ、四段型式になるのもこの頃からです。
 昔のだんじり祭はだんじりがお宮さんに参るという事は、お祭のことですから本義だと思いますが、当時の大名の力というものは、大変なもので大名のごきげんを取るということも、これまた見逃すことの出来ない事なのです。そこでだんじりはまず、城下町をねり歩いて、そして今の市役所の所のユナカラ坂より上りそこには筋金門があって、そこを通って城内に入るのですが、城内に入りまして極楽橋を渡ってただ今残っております本丸と二の丸との間の道筋を通る。二の丸にはお殿様のお屋敷があって、玄関の前は広々としており、そこを通る時にだんじりは必ずお殿様にご挨拶を申し上げる。
 お殿様は玄関にお出になって、みすの内からだんじりをご覧になる。その時にだんじりは色々面白い芸をしてご覧にいれる。これが1つの大きな行事でした。
 お殿様というのはただいま我々が考えているような生やさしい権力ではなく、絶対独裁的で非常に気ままな人たちが多かったので、1つ2つにわかなり、芸事をご覧になってあきがきたり、面白くなかったらさっさと中へ入ってしまいます。それであとの方にまわっただんじりは、いかに面白いにわかをしてもお殿様にご覧にいれるという事は出来なかった。そのために1番2番という宮入りの順序が非常に争われた。
 お殿様に芸事を見てもらってから、二の丸の前を通って、以前の裁判所の横を通って三の丸稲荷にお参りしました。三の丸稲荷は岡部さんがおまつりしたお宮さんですので、必ずこのお宮さんにお参りする。このお宮さんにお参りして、その前の道を通り今の蛸地蔵駅の方に向うと土手になっており、左手は武家屋敷でこれは俗に南屋敷、岡部頼母という人の屋敷です。北は朝比奈という人の屋敷で南北両屋敷といわれ、非常に格式の高い武士でありました。従って屋敷もずいぶん広く大きかったし門長屋も長かったのです。その前を通りまして、一番東の詰に乾という武士の屋敷がありました。その乾の屋敷の前に南大手門があり、それを乾の辻と人々は呼んでおりました。その乾の辻まで来て、今度はその辻を左にとって須藤さんの前を通り、神明社にお参りして佐々木さんの前を通り、東大手門をぬけて城外に出て、古城川に沿って欄干橋に出ました。こういう道順で城内に入り、宮入りをして城外に出る順序でした。