『 トピック 』 |
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マルチプル・ポール・ハリス・フェロー・ピン授与
【マルチプル(1)】
横 田 昌 也 会員、河 崎 茂 子 会員、山 本 新一郎 会員
【マルチプル(2)】
宮 本 治 子 会員
【マルチプル(3)】
大 石 武 徳 会員
【マルチプル(4)】
中 橋 啓之助 会員、深 井 正 夫 会員、寺 田 美 昭 会員
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『卒後66年今尚現役』 |
医療法人河崎会 水間病院
理事長 河 崎 茂 様
(日本精神科病院協会 名誉会長) |
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昭和17年9月30日、大阪医科大学の前身大阪高等医学専門学校を繰り上げ卒業してから、66年が経った。すばらしき師のご指導のもとでの5年間にわたる学びとその後66年間は、人智の及ばぬ大きな時代の節目を乗り越えたところで、今日の私をつくり出した。この間軍医として3年間のビルマ戦線後、終戦を迎えた。
振り返れば、復員後無医村であった地域の医療に取り組み、精神科医療の道に足を踏み入れ、やがて私は日本精神病院協会の会長を12年間務めたが、その最初の仕事は当時諸外国から「現在の日本の精神科医療では文明国とはいえない」とたたかれていたわが国の精神病院の改革を、人権尊重と社会復帰を柱として取り組んだことだった。昭和62年には、厚生省の小林秀質精神衛生課長の努力もあり、何とか精神衛生法を精神保健法に改正することができ、ようやく文明国の仲間入りを果たすことができた。
小林課長の日精協への対応や精神障害者施策についての先見性を負うところが大であるが、われわれの精神科病院改革への不退転の決意と努力は諸外国も評価し、国内も認めるところであった。改正がなったときの小林課長の笑顔は清々しいものであった。
他方、時を同じくして要介護高齢者についても進展する高齢化社会に対応すべく、昭和62年老人保健施設が創設された。私は新築になった病棟の一部を転用して、認知症専用の老健「希望ヶ丘」として、そのモデル事業に参加したのは、現在医事評論家としてご活躍中の水野肇先生の強力なご指導によるものである。「老健誕生」はかつての閉鎖的な精神科病院並びに老人病院に風穴を開ける画期的な挑戦であるとともに、高齢化社会を迎えての見事な対策であり、東南北アジア諸国の注目のもと、見学者が集まった。同時に、猫の目のように変わる国の施策に翻弄される苦しい20年の始まりでもあった。
ところで、私は現在、全国老人保健施設連盟の委員長として働いている。その活動の基本線は現在の要介護高齢者の実態を、国会および議会関係者、関連団体、マスコミ等に広く理解していただくよう働きかけることである。
老人保健施設の実態を国民の方々にみていただき、老健発足から今日までの理解を得たうえで、今後の老健、要介護高齢者への真摯なる取り組みを支援していただきたいとの考えである。特に現在170万人といわれる認知症高齢者のケアは大きく変わり、これに従って精神科医療の在り方も変わった。一例をあげれば、わが老健希望ヶ丘で始まったリハビリテーション大学近くの丘、たけやぶ、各種みかんのなる果樹園、さらには作業の合間に憩いの場となる休憩所等、合わせて40万uにわたる山野の自然の中に配したイネーブルガーデンを活用した園芸療法は、認知症高齢者の症状安定と改善に効果を現している。
こうした現場の動きとともに、今後は精神科医療も高齢者のリハビリも、治療だけでなく若年層をも視野に入れた予防に力を入れることが不可欠であり、このことを国民に広く、深く理解していただくがために、私財を投げ出して大阪河アリハビリテーション大学を開学した。そしてこの大学を発信基地として、治療と予防の教育に全力を尽くしたい。それが私の仕事の基本線と考えている。
社会保障の困難な時代を迎え、国民の未来への希望は揺るぎ始めている。この時にこそ、国民皆保険制度の真の堅持と医療、介護を含めた社会保障のあるべき姿の再構築に向けて、地域の皆さんの英知を結集していただきたい。
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