岸和田東ロータリークラブ 国際ロータリークラブ第2640地区
2007〜2008年度RIテーマ
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制作:資料管理・OA委員会
 

第1538回例会 2月8日(金)

 『ご挨拶』 郡山アーバンRC 会長 鈴 木 尚 子 様

 みなさん こんにちは。
 貴クラブと私どものクラブとは貴クラブの30周年記念会と私どもの10周年記念会のときに熱い交流がありました。しかし、考えてみますと私は貴クラブの例会訪問は今日が初めてです。訪問できたことを大変うれしく思います。
 近況報告としては、郡山アーバンRCは現在40名で、うち女性会員は14名です。退会者がいないよう努力しています。貴クラブとの共同でなにか良い事業ができないかと考えているところです。私どものクラブの奉仕事業として郡山出身である、元大阪シンフォニカー交響楽団指揮者であり、現ベトナム国立交響楽団の常任指揮者である本名徹次様のご縁でベトナムと文化交流を行っています。この度はベートーベンの楽譜(源譜)を国立ベトナムオペラハウスに贈ることになり、6月9日に贈呈式を行います。
 岸和田東RCとは来年度再締結の年となっております。どうぞ、ロータリーの基本となる「奉仕活動」の人と人との絆、地域社会の絆、日本と国際社会との絆の大切さを再認識し、今日まで培って来た「奉仕の心、奉仕の感動」を遠く離れていても友好クラブの皆様と共に交流を通じ「奉仕の感動を分かちあう」と言う連帯感を共有する友好クラブとして今後とも長いお付合いをお願い申し上げます。



 例会終了後、1階喫茶室にて鈴木尚子様を囲んでの歓迎懇談会がもたれました。小山、楠部元会員奥様も参加されました。




 『倒れて知った病気の怖さ』 西 野 公 朗 会員

 子どもの頃は戦前、戦中、戦後と食べの物の無い時代、物の無い時代、薬の無い時代に病気もせず、元気に過ごし、高校、大学と益々元気でスポーツに励みました。社会人と成ってからも病気の事など頭になかった。日曜、祭日も働き、お盆と正月くらい休みを取っただけで、毎日を楽しく、よく働き、よく運動をした。60歳近くになって外に出る事が多くなり、外食で毎日、おいしい物、自分の好きな肉、天ぷらばかり食べ、大切な野菜、果物を食べず、運動もしなくなった。67歳の1月27日、その日は特に寒い日だったのを覚えています。夜、新年パーティーに招待され、雪本幹事とグランドホールに出向き、その帰り外に出た所で急に胸が重苦しくなり、倒れこんだ。雪本幹事は、すぐ近くにある畑田先生の医院に信号無視で走り運び込んでくれました。その後の事はあまり覚えていません。気が付くと市民病院の手術室で、先生や看護師さん達が何やらやってくれていた。先生は、「もう心配無いよ」と声を掛けてくれましたが、自分がどうなっているのか解りませんでした。廊下では、身内やロータリークラブの方々が多く来てくれていて、看護師さんが驚いていたと家内が言ってました。嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいでした。集中治療室で2日過ごし、一般病棟に移った時、担当の先生が入ってこられ、心臓に連なっている血管3本とも、つまりそのうちの2本は99%詰まってました。と説明を受けました。太い体の血管にステントを入れたが、2本目の血管は2週間後に入れました。
 3本目は、その後で考えるといわれ、その後日3本目は55%通っているので様子を見ましょうと。細い血管が2本出来ているから、そのままでいくと言われ、まもなく退院しました。3週間の入院生活でした。2月3日退院した日は、赤飯と鯛で祝いました。本当に嬉しかった。助かった。毎日が日本晴れであった。ところが、6ヶ月ぐらいしてから、長時間歩いたり、少し早足で歩くと胸が苦しくなったり、肩こりかなと考える様になり、段々その回数が多くなって10ヶ月ぐらいで100mも歩けなくなり、再び病院で検査をしました。つまっている、入院とカテーテルをするとの事、不安になってきました。2週間の入院で退院をしたが、1年くらい過ぎると、また苦しくなり、入院、カテーテルと5年間で6回繰り返し、6年目の入院の時は、今回カテーテルではだめかも、その時は近くの近大病院でバイパス手術と言われました。そのために救急車を待機させておくと。手術室に入ったが、冷蔵庫に入っている様で、寒くて震えて、心配と苦しさで最後かなと思いました。1時間くらいして「西野さん、心配したけど、うまくいったよ」と先生から言われ助かったと思いました。そして半年後、再び苦しくなり入院、8回目です。今度はどうなるのか。元気に帰れるかなと思っていると、先生がアメリカのステントが認可されたので使ってみたい。病院も初めての事なので、でもやりましょうと言ってくれました。しかも2本しかない。その2本を入れます、いいですかと、不安がありましたが、お願いしますと返事をした。毎度のごとく入院、カテーテルが終わり、2〜3ヶ月ごとの検査を続けながら1年が過ぎても元気に歩け、少し走っても苦しくなく、さすがアメリカのステントは良いな、もっと早く日本で認可されていたら良かったのにと思いながら今年で3年倒れてから8年目でやっと、もう大丈夫と思っているが、どうかな!
 次に私にはもう一つ人生終りかなと思った事があります。心筋梗塞で倒れて、入退院を繰り返していた2年目の時、トイレで出血し便器が真っ赤に染まった。驚いて家内に言うとすぐに山口先生に電話で相談してました。先生は、すぐに市民病院に連絡を取って下さり、一緒に行ってくれました。検査の結果、担当の先生がはっきり言っていいですか、よろしいですか、と念を押されました。怖かったが、いいです。と言ってしまった。“ガン”ですと言われた瞬間、頭が真っ白になり、大きなショックを受け、今度はだめかと内心思いながら手術ですか、と聞くともちろんです。としかし、予定がつまっていてすぐに出来ない20日以上待つとのこと。20日も待ったら“ガン”が大きくなり病状が進行しないかと、またまた不安、10日や20日で早く進みませんと言われました。
 数日後、検査をしている先生に“ガン”は大きいですか、と聞いてみた。若い先生は大きいですよ、と両手の指で丸く輪を造った。見てびっくり、腸の太さより大きい、また大きなショックを受け、家であと2〜3年くらいしか生きれないのかと落ち込んでいると家内が心配して、息子に電話を入れていた。次の日息子が帰ってきて病院で聞き、そんなに大きくはない、心配するなと言ってくれたので、少し落ち着きました。でも手術の日までの20日間、毎日が暗い暗い日々で、長く長く感じました。やっとその日になり、手術室に入った。気が付くと集中治療室にいた。看護師さんが来て、「西野さん、また来たな、大丈夫やで」と声を掛けてくれたのが息子の同級生で、親切にして下さり嬉しかった。
 病院に帰ると婦長さんが来られ、心配ないと何かあったら言ってね、と色々話をし、元気を分けてくれた。この婦長さんも息子の同級生で、嬉しかった。その後にもっと嬉しい事がありました。夜中の12時頃に手術を担当して下さった先生が病室まで来て、夜中に申し訳ないが検査の結果がすごく良かったので喜んで頂こうと思ってと知らせてくれました。家内に聞くと、“ガン”の検査の結果が思っていたより良い結果で、ステージが0,1,2,3,4とあるけれど、結果は1で早く見つかり転移もなく、この状態では抗がん剤も心配ないと言ってもらい、この時ばかりは家内と大声を出して、「よかった、よかった」と抱き合って喜びました。先生も一緒になって喜んでくれました。その夜、朝まで眠れなかった。朝早く、家内が息子に報告していた、今度も助かった。そして今年で6年目、毎日元気、元気で過ごしているが、食事、運動、ストレスには常に気を使っています。(家内が…)。
先日、仲本先生が卓話で“ガン”の話をされました。身にしみて聞きました。“ガン”になって真剣に聞く、“ガン”の話。病気を知らない元気な人は軽く聞き流している。よい環境でストレスの少ない、そしてよく運動をする。タバコは吸わない、お酒は少し、食事はバランス良く、等々。誰もが守れることなのに守れない人が多い。皆さんはどっち?守れない人、次に倒れるのは誰!