名字とは、日頃あまり意識することはありませんが、ネーミングの由来は? 祖先はどこから? など、名字と言われていくつかの疑問も浮かんできます。今回は苗字がどのような変遷をたどって使用されるようになったのか、また、岸和田市にはどんな名字があるのか、調べてみました。
<概要>
苗字は名字とほぼ同義語ですが、名字とは「あざな」と呼ばれており、中国から入ってきた人物区分法であり、現在日本には約30万に及ぶと言われております。
戦後は名字と表現するのが一般的になりましたが、苗字にはもともと祖先の職業や地位、土地柄などを直接、あるいは間接的に表現してある場合が多いと言われます。
また、名字と姓、氏はかつて別表記してありました。
徳川家康を例に、彼は清和源氏新田氏の流れをくんでおり、正式には「徳川次郎三郎源朝臣家康」と表記し、「徳川」が名字、「次郎三郎」が通称、「源」が氏、「朝臣」が姓、「家康」が実名となります。
名字がどのような変遷を経て今に至るのか、時代とともにたどってみたいと思います。
大和朝廷の支配下、豪族たちは、血縁集団による氏を形成し、地位や職業で姓(かばね)を区分した。
姓は、真人、朝臣、忌寸、道師、臣、連など8種類ほどあり、天皇により下賜された。
氏とは血縁関係の家族集団を表現しますから、のちに大化の改新による律令制度が開始されたことで、氏などの家柄よりも個人の能力を重視する動きがあり、氏姓制度は崩壊しました。
臣籍降下という制度は現在も導入されており、皇室を離れた者は武家、あるいは個人の氏族として身分を異としました。
皇室に近い公家の系統、源氏、平氏はそれぞれ奈良時代以来、名家の誉れ高く、藤原、橘など功績が認められた氏も貴族社会の中枢でもあり、「源平藤橘」四氏は奈良時代以来繁栄した一門でした。
氏姓とは天皇から下賜されたものであり、公的な親族集団の総称であるのに対して、名字とは自分の意志で名乗る私的な総称です。戦国時代には武士が台頭し、家系や血筋、権益や社会的地位を確保する必要性から名字が使われ、百姓の身分も安定した家系の確立のため、名字を使用した家もありました。
江戸時代は幕府の政策により士農工商の身分制度が確立され、氏姓は名字帯刀を許された武家、あるいは学問や医学など特殊な業績を残した家にだけ与えられ、庶民はほとんど氏名を名乗ることができませんでした。
近代国家を推し進める明治政府は徴税や兵役の義務化を行い、それによって家族単位に苗字をつけることを強制しました。名字帯刀の制度は残したものの、戸籍法が公布されたことで庶民の各戸に苗字が導入されました。また、幕府容認の苗字使用の禁止や下賜された松平名の禁止など、中央集権を意図する明治政府の意向が組まれました。
このように名字は時代とともに変化してきました。デジタル庁による管轄ですべてがデータベース化された現代と比べ、名字が唯一の認証システムでもあったと言えるでしょう。
ちなみに岸和田市でメジャーな名字は、田中、山本、西村、松本、藤原、西川、植田、和田、川崎……などが挙げられ、塔原町は藤原、上町は岸田、河合町は小山や奥野など、町ごとに多く集中する名字もあり、地域の風土や歴史を調べながら名字由来の変遷をたどってみるのも面白いかと思います。