第2153回岸和田3RC合同オンライン例会報告[2022年2月18日(金)]

会長の時間

 岡本平仁 会長

 

ホストクラブ 岸和田東ロータリークラブ 岡本平仁

 

岸和田RCの皆様・岸和田南RCの皆様・岸和田東RCの皆様、こんにちは。

本日、2年ぶりの岸和田3RC合同例会です。宜しくお願いします。

卓話講師、谷直樹先生後ほどの卓話、宜しくお願いいたします。

 

本日の例会、岸和田3RC合同例会で初となるZOOMによるリモート例会となりました。

禍を転じて福となすとなるように、この例会を貴重な機会と捉え、可能性あるものを試して行きたいと思います。ご参加頂いた会員の皆様、誠に有り難うございます。

 

さて、2月のロータリーは、「平和構築と紛争予防月間」であります。

ロータリーの始まりの日、1905年2月23日、ロータリーの創始者ポール・ハリスとガスターバス・ローア、シルベスター・シール、ハイラム E. ショーレーこの4人が、ローアの事務所でロータリー初のクラブ例会を開いた日であり、この2月23日を祝う創立記念日は、「世界理解と平和の日」とされています。来週の水曜日がその日ですが、日本では偶然にも天皇誕生日と重なっております。

 

ということで誕生日つながりです。本日2月18日誕生日の人物について触れたいと思います。

紀元前259年2月18日 2281年前

・始皇帝 嬴政 秦の始皇帝

1530年2月18日 492年前

・上杉謙信 戦国大名  この二人が同じ誕生日だったとは!偶然とはいえ、驚いてます。

1844年2月18日

・斉藤一 新撰組隊士

1898年2月18日 124年前

・エンツォ・フェラーリ フェラーリの創設者

1954年2月18日 68年前

・ジョン・トラボルタ 俳優

1967年2月18日 55年前

・ロベルト・バッジョ 元イタリア代表サッカー選手

私と同じ年です。三浦知良(2月26日)も同級生。

 

最後に

大阪府に出ております、まん延防止等重点措置も3月6日まで延長される見込みで、新型コロナの影響は残念ですがもうしばらく続くようです。皆様、感染予防は充分にされておると思いますが、油断なさらずにして下さい。

こまめに、うがい・手洗い・消毒と、そして何より大切なのが美味しいものを食べ、充分な睡眠を心がけ、体調管理にお気をつけて下さい。けっして無理をしないようにお過ごし下さい。

以上、会長の時間とさせて頂きます。有り難うございました。

卓話

「大阪の城 ―大阪城と岸和田城」

大阪市立大学名誉教授 谷 直樹様

大阪市立大学名誉教授 谷 直樹様

講師のご紹介

谷 直樹先生

・1948年兵庫県姫路市にお生まれになり、1967年大阪府立大手前高校を卒業、京都大学工学部建築学科、同大学院工学研究科を修了され、堺市博物館主任研修員を経て、1986年より大阪市立大学に奉職。

生活科学科教授等を歴任され、2012年退官と同時に名誉教授になられました。

 

・2001年に開館された「大阪くらしの今昔館(こんじゃくかん)」の館長を開館から2021年3月まで務められました。

 

・また、NHKの朝のドラマ

現在、放送中の「カムカムエヴリバディ」をはじめ

「ごちそうさん」

「あさがきた」等で

時代考証、風俗考証を担当されておられます。

幅広い分野で、ご活躍なさっておられます。


 

今から350年前、1670年頃の景観年代をもち、伏見から大阪湾・瀬戸内海を経て、九州の長崎までの海域を描いた「西海船路之図」(重要文化財「大工頭中井家関係資料」中井正知氏・中井正純氏蔵)の冒頭部分を見ると、淀川の中流に淀城があり、大阪湾沿いに、北から尼崎城、大坂城、岸和田城、和歌山城の天守が描かれている。大坂の陣の直前は、淀城の代わりに伏見城があって徳川家がこれを預かり、大阪城には豊臣秀頼が居を構え、岸和田城には小出吉秀、和歌山城には浅野幸長が城を築き、それぞれ天守をもっていた。

大坂の陣が終わると、徳川方の城づくりが本格化し、淀城、高槻城、尼崎城が築城され、大坂城の天守が再建された。とくに大坂城の沿岸には、尼崎城の4層天守、大坂城の5層天守、岸和田城の5層天守、そして和歌山城の3層の天守がそびえ、和歌山には御三家の一家で徳川家康の10男である徳川頼宣が駿府から入城した。

徳川氏の大坂城再築は、西国の大名を動員して落城した豊臣大坂城を埋め尽くし、その上に盛土をして巨石を運搬し、日本で最大級の石垣を築いた。徳川大坂城の天守の高さは天守台を含めて約58メートルあり、江戸城天守とほぼ同じ高さのものを大工頭中井正侶の指導の下で建設した。これは現存最大の姫路城天守の1.3倍程度の高さがあり、空前絶後の規模であったが、寛文5年(1665)に落雷で焼失してしまった。

学校の教科書では大坂城は豊臣秀吉の築城になっている。それ自体は間違いではないが、往々にして、現存する大阪城も秀吉時代のものと思っている人も多い。秀吉ひいきの大阪人にその傾向が強い。しかし、現存する大阪城の石垣や櫓は、すべて江戸時代の初期に徳川秀忠の命で造営したものである。その後、天守以外の大坂城の建物の大半は、幕末まで残っていた。幕末の写真を見ると、三層の櫓が本丸を取り巻く、豪壮な大坂城の姿を見ることができる。しかし、鳥羽伏見の戦いで敗走した幕府軍が大坂城に入り、指揮を執っていた将軍徳川慶喜が大坂城を抜け出して、天保山から船に乗って江戸城に逃げ帰った後、城内から火が出て、本丸御殿を始め、本丸にあったすべての三層櫓など、大半の建物を失ってしまった。

明治維新後、大阪城には陸軍の大阪鎮台が置かれ、明治18年(1885)、和歌山城の二の丸御殿を大坂城本丸に移築した。これは紀州御殿と呼ばれた。しかし、大阪城内は陸軍大阪鎮台本営となって、一般市民は立ち入ることができなかった。大正14年(1925)に大阪市は周辺の町村を合併して市域を拡張し、いわゆる「大大阪」時代を迎える。それを記念して、「大大阪記念博覧会」が天王寺公園を第1会場として開催された。大阪城は第2会場になり、天守台の上に2層の豊公館が建てられた。これをきっかけに本格的な天守閣を復興する機運が高まり、市民からの寄付金もあって、昭和6年(1931)に現在の大阪城天守閣が竣工した。鉄筋鉄骨コンクリート造で復興された最初の城郭建築で、工法的に様々な課題があったが、大林組によって見事に再建された。

但し、当時は学術研究が進んでいなかったこともあり、大阪城の石垣は秀吉時代のものと信じられていた。従って、土台(石垣)が徳川時代、土台上の復興建物は豊臣時代という歴史的にはあり得ない再現になってしまった。しかし、豊臣石垣が発見されたのは昭和35年頃なので、天守閣建設から30年が経っており、やむを得ないことであった。それより、再建から90年間も大阪の空にそびえてきた天守閣は、国の登録文化財にも登録され、大阪市にはなくてはならない観光名所となっている。

ところで、戦後、まだ物資も不自由な時代に、真っ先に天守閣の復興を果たしたのが、岸和田城であった。岸和田城の復興は、市民の寄付金や旧城主の岡部家からの強い希望があって実現したもので、このことは市民の誇りとすべき快挙と言える。設計を担当した池田谷久吉氏(1897~1956)は泉佐野の生まれ、市立大阪工業学校(現在の大阪市立都島工業高等学校)建築学科を卒業し、大阪府を経て、池田谷建築事務所を創立して設計活動を始めた。昭和4年(1929)には大阪府史蹟名称天然記念物調査委員になり、歴史分野に関わる活動を行っている。戦後、昭和26年(1951)に一級建築士免許を取得し、古建築の修理・保存にも活躍した。そして晩年の昭和29年(1954)に岸和田城の設計を行うことになった。江戸時代の岸和田城天守は五層で、「正保城絵図」によると、その外観は現存する松本城天守に似ている。しかし、池田谷氏が設計した天守は三層で、妻側の外観は彦根城天守を参考にしたことを思わせる。工事費は当時の金額で3460万円、鉄骨鉄筋コンクリート造で、施工は岩出建設株式会社であった。昭和30年(1955)の給与所得者の平均年収が20.8万円、平成27年(2015)で420万円なので、これを基準にすると約7億円になる。この岸和田城の復興天守は、戦後もっとも早いもので、翌々年に岐阜城の復興天守、その翌年に名古屋城の復元天守が建設されるなど、全国的な天守ブームの口火を切ったものである。

さらに戦災で焼失した和歌山城天守が、岸和田城復興の4年後の昭和33年(1958)に、同じく鉄骨鉄筋コンクリートで外観復元された。和歌山城は、焼失前の図面と幕末の図面が残っていたため、外観は忠実に再現されたことになる。さらに60年後、平成31年(2019)に尼崎城の4層天守が復興された。尼崎城は明治維新後に本丸部分が大きく破壊されたので、元の天守の位置ではないが、古絵図を参考にして石垣から築いて再現された。

城の天守が町の誇りになり、市民のアイデンティティを醸成する。戦前に日本で初めて鉄骨鉄筋コンクリートで復興された大阪城、戦後の一番早い時期に同じく鉄骨鉄筋コンクリートで復興された岸和田城、この二つの天守閣の存在は、数年後に和歌山城天守の復元につながり、平成の最後の年に、尼崎城が復興された。かつて、大阪湾を囲んでいた天守群が、現代に再現されたのである。関空から高速道路で大阪に入ると、一番先に見える岸和田城天守閣は、このような歴史的意義、現代的意義をもつものである。

 

岸和田城天守閣再建設計図(池田谷久吉)

 

岸和田城天守閣竣工直前の写真(岩出建設株式会社蔵)

トピック

記事はありません。