鶉野飛行場は1943年10月、兵庫県加西市(当時は加西郡鶉野)の南東部、鶉野台地に海軍パイロット養成基地として開設されました。
鶉野は近くに法華口駅があり、兵隊の移動と物資輸送に便利だったこと、四方に山が少なく、見晴らしがいいことなど、立地条件が重なり、海軍はこの地に飛行場建設を指定します。
立ち退き料は一戸あたり当時の額で5千円でした。
翌年、川西航空機鶉野工場が併設され、局地戦闘機「紫電」「紫電改」が生産されました。
1945年2月には神風特別攻撃隊「白鷺隊(はくろたい)」が編成され、沖縄へ出撃、前途有望な若者63名が大空に散っていきました。
終戦までわずか2年にも満たない時間の中で、この基地が建設された経緯と戦争の惨禍に散った若者たちの軌跡を追いながら往時をふり返ってみたいと思います。
1941年9月6日― ―
さかのぼること太平洋戦争勃発の約3ヶ月前、御前会議において永野総長は、
「10月上旬に至るもなお要求を貫徹しうる目途なき場合においてはただちに対米(英・蘭)開戦を決意す」
天皇陛下を前に強硬な主戦論を唱えます。
しかし当時、日本は石油の70%をアメリカに頼る現状であり、資源、経済、工学すべてにおいて劣り、国力の差は歴然としていました。
作戦立案のシミュレーションをしても最悪の結果しか想定できないのにもかかわらず、しかし永野は予算獲得のために危機を煽り、国家総動員で戦争に賭ける、強硬で勇ましい意見をふりかざします。
このとき状況を冷静に判断する意見はありましたが、敗北主義として軽視されしまい、できあがったのは夢みたいな計画でした。
しかし、それは国民にとって悪夢でしかなかったのです。
1941年11月25日――
択捉島に日本の機動部隊が集結、29隻の艦隊がハワイへむけて発進しました。
司令官は山本五十六。
もともと山本は非戦を主張する平和主義者でしたから、何度も日本の大使館へはたらきかけ、何とか戦争回避できるよう和平交渉に臨み、交渉が締結したら帰還する心づもりでした。
当時、アジアの中で独立国は日本とシャム(=タイ王国)だけでした。
当時、日本にはアジアの代表として、アジア諸国の発展のため、東亜解放のため、アジアの人々とともに手を携え王道楽土を築いていこうという理想がありました。
満州へ進出したのもそのためでしたが、しだいに中国へと手を広げ、欧米列強からは侵略だと非難を浴び、孤立感を深めた日本は国連を脱退します。
さらにアメリカがハルノートを突きつけるなど日本はしだいに苦しい状況に陥ります。
このハルノートには中国、インドからの撤退、三国同盟の否認など、日露戦争以来築いてきた権限をすべて放棄させる内容が書かれてあり、「もしモナコやルクセンブルクが同じ条件を突きつけられたなら戦争をしただろう」とインドのパール判事が唱えたほどのきびしい内容であり、これを契機として和平交渉は決裂、日本は太平洋戦争へと突き進んでいきました。
1941年12月8日――
日本の機動部隊がハワイオワフ島真珠湾を攻撃します。
6隻の航空母艦に戦闘機、爆撃機、攻撃機など400機の飛行機、さらに爆弾や魚雷など武器弾薬を搭載し、このとき大活躍したのが飛行機でした。
日本のパイロットは世界一級。
アメリカの機動部隊を徹底的に攻撃します。
主力船2隻、巡洋艦4隻大破、作戦は大成功に終わったかに見えました。
しかしこのとき日本軍はアメリカの造船所を破壊しなかった、空母も燃料タンクも叩かず、帰還します。
山本五十六はアメリカの戦力が拡大する前に終戦に持ち込もうと次々と作戦を練ります。
その最たるものがミッドウェー海戦でした。
1942年6月6日――
日本軍はふたたびアメリカの機動部隊を叩く攻撃に出ます。
その約1ヶ月前、5月8日午前3時。
アメリカ艦隊を発見するために日本軍の空母飛行甲板から8機の索敵機と97式艦攻が飛び立ちました。
機動部隊がこちらに近づきつつあるのに、洋上に浮かぶ米粒ほどの艦船を探すのは至難の業でした。
午前6時22分。
とうとう敵艦隊発見に至らず、司令官はやむをえず攻撃を変更、魚雷を陸用爆弾に積み替えるよう指示を出します。作戦変更で船内は上を下への大騒ぎとなりました。
と、まさにそのとき、
――敵空母、発見セリ。
甲板にはまだ積み替えの済んでいない爆弾が放置したままになっており、そこへ敵が襲撃、甲板はたちまち炎に覆われ、さらに海底からは魚雷が発射され、日本の空母は次々と沈められていきました。
猛者と呼ばれたエースパイロットが反撃に出ますが、空を埋めつくすグラマンめがけて抗戦に出ても、そのあまりの数の多さに太刀打ちできず、ゼロ戦はみるみる撃墜され海の藻屑となっていきました。
結果は惨敗、わずか1時間あまりの間に武蔵など大型空母4隻が沈没、日本軍は250機の飛行機と搭乗員のほとんどを失いました。
ミッドウェー海戦大敗の翌年の1943年といえば、連合艦隊に翳りが見えはじめた大変な年でした。
2月ガダルカナル撤退、4月山本五十六戦死、5月アッツ島玉砕――
日本が負ける――。
情報統制下でしたが、負け戦になりつつあるのを国民のほとんど誰もが感じていました。
もはや悠長に勉学に励んでいられる世の中ではなく、10月には在学徴集延期が停止、文系の20歳以上の男子の徴兵が決定します。
10月21日、冷たい雨がそぼ降る中、明治神宮外苑競技場において出陣学徒壮行会が挙行されました。
白地に「大学」と書かれた東京帝大(現在の東京大学)の校旗が先陣を切ってはためき、行進する学徒兵は雨で濡れ、ゲートルを巻いたズボンの裾はぬかるむ地面の泥がはね返り、蒸気した湯気が肩から白く立ちのぼって見えました。
――生等、もとより生還を期せず。
江橋慎四郎さんの宣誓は内心の悲壮感をひた隠す学徒兵の気持ちをよく代弁するものであり、会場の女学生の涙を誘いました。
将来を担う若者が国難の時局に立ち向かい、ペンを捨て銃剣をかつぎ、軍服に身を包んで行進する姿は多くの人々の胸を打ち、彼らの若い力が結集すれば今の苦戦を巻き返せるかもしれない、必ずや日本を勝利へと導いてくれるだろう、そう国民は期待しました。
しかし、学徒兵が戦場に導入された頃にはすでに戦局は絶望的で、まともな戦法で勝てる状況ではありませんでした。
学徒兵が動員された翌年1944年3月にはついにサイパンが陥落し、制空権制海権は完全にアメリカに握られ、日本は防波堤のない状態でした。日本軍をさらに苦境へと追い立てたのは飛行機でした。
――駿馬、老いる。
ゼロ戦の設計者、堀越二郎が嘆息したごとく、かつて太平洋を暴れまわったゼロ戦はもうこの頃には旧式でお粗末な飛行機にしかすぎなくなっていました。
パイロット不足も深刻でした。
開戦当初は圧倒的な強さを誇ったゼロ戦ですが、数と性能が上回るアメリカの新型戦闘機に次々と撃墜され、予科練を出たばかりの若いパイロットが戦局を支えていたのです。
多くの熟練を失った日本軍は新たなパイロットの養成と即戦力となる飛行機の開発を急ぎました。
1943年10月1日――
姫路海軍航空隊基地は日本海軍に翳りが見えはじめたこの頃に開設されました。
艦上攻撃機実用教程のパイロット養成基地が完成、さらに姫路海軍航空隊が結成され、およそ30時間の飛行訓練が行われました。
併設する川西航空機鶉野工場では「紫電改」が製造されました。
川西航空機(現在の新明和工業)は、兵庫県鳴尾郡に設立された水上機メーカーでした。
水上戦闘機「強風」、それを陸用に改良したのが局地戦闘機「紫電」、さらに改良を加えたのが「紫電改」でした。
設計者は菊原静男さん。
ゼロ戦の倍2000馬力のエンジンが搭載され、それまでの紫電より胴体をしぼり、シャープなフォルムに設計し直しました。強靱な武装を持つ機体の速度と圧力G(重力加速度)にスムーズに対応できる自動空戦フラップを装備し、ゼロ戦に不足していた速力と防弾を備えた戦闘機として紫電改は生まれ変わりました。
――紫電改はアメリカ戦闘機グラマンF6Fへの日本技術陣の回答である。戦後アメリカをしてそう言わしめたほど、エンジン出力と武装を備えた紫電改は三菱や中島製をも凌駕し、海軍の期待を双翼に担う新たな飛行機として正式採用されると、川西航空機は総意で1機でも多く紫電改を世に送り出そうと死力を尽くします。
「紫電改」は不眠不休で改良に取り組んだ川西の工員と技術者たちの汗と努力と情熱の結晶でした。
この紫電改がもっとも活躍したのは海軍の松山航空隊(愛媛)においてでした。
源田実司令官が率いる松山343隊は「源田サーカス」と謳われ、ベテランパイロットと紫電改の迎撃は日本の空戦史上、もっとも実績高い集団としてその名を刻みました。
――オレたちが本土の空を守り抜く。
当時、昭和の志士として日本を救う気概に燃えていた若者が少なくない中で、松山隊の精鋭パイロット菅野直は、ふだんは白皙で物静かな人柄の方でしたが、いざ空戦となれば経験の乏しい部下を庇い、みずから楯となって敵に立ち向かう、大尉としての威厳と風格がありました。
源田実司令と菅野直大尉――
2人は海軍ではめずらしい温和で常識的なジェントルマンとして多くの部下たちから慕われました。
大戦末期、紫電改の総数は400余り――
いくらすぐれた飛行機と熟練パイロットがいても、圧倒的なアメリカの物量には追いつけず、しかも機体をスムーズに飛ばせるだけのハイオク燃料が日本にはありませんでした。
紫電改とベテランパイロットの集中使用で戦局を立て直すなど、夢のまた夢でした。
レイテ戦の半年前の1944年6月25日――
戦局打開のための御前会議が宮中で開かれ、
――このままでは犠牲者が増えるばかりだ。早く講話にもっていかねば国がもたない。
そうささやく参謀もいる中で伏見宮元帥は、
「陸海軍は何か特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をせねばならない」と発言、暗に特攻作戦を示したのではありませんでしたが、これを忖度した参謀は総意で人間爆弾「桜花」「回天」の兵器開発に乗りだします。
本来「桜花」はフィリピンやシンガポールの各地に配置する計画でしたが、ことごとく空母が沈められてしまったことで計画は頓挫してしまいます。
さらに今度のレイテ戦でフィリピンを獲られてしまってはもう日本は後がない――
戦局を一気に覆すことなどほぼ不可能でしたから、敵が度肝を抜くような大打撃を与えよう、こんな打撃を受けたならもういいかげん戦争はやめよう、敵をしてそういう心境に持っていけたならしめたものだと、
つまり、
「どちらかが倒れるまで戦う=Total War」ではなく、
「少ない犠牲で最大の戦果をあげて終戦の講和締結へ持ち込む=Limited War」
として編み出された戦法が「特攻作戦」でした。
ところがレイテ戦において思いがけない大戦果をあげたことで
――これならまだ戦う余地があるかもしれない。
皮肉にも、終戦に持ち込むはずの特攻作戦は消えかかっていた戦意に火を灯すことになり、日本はますます戦争へのめり込んでいくことになるのです。
1944年3月17日、硫黄島が陥落――
日本の守備隊の死者2万人、アメリカ側の戦死負傷者合わせて2万人、硫黄島の戦いは「史上最悪の戦い」と呼ばれました。
これほど多大な犠牲を出してまでも奪取にこだわったのは、前線基地や飛行場をつくるのに最適な場所であったためでした。
硫黄島を拠点に据えたアメリカは、航続距離の短い戦闘機での日本本土攻撃を可能にしました。
3月10日 東京大空襲。
3月12日 名古屋大空襲。
3月14日 大阪大空襲。
3月17日 神戸大空襲。
相次ぐはげしい空襲により、日本の主要都市は灰燼と化しました。
本土決戦が現実として迫り、アメリカ軍が攻めてくるのは時間の問題でした。
――本土決戦になれば、国民が戦禍に巻き込まれ、国土も風土も文化も、すべてが破壊尽くされてしまう。
軍隊、特に海軍は厳格な縦社会であり、おおむね合理的な思考をします。
作戦を遂行できそうにない、操縦が下手なパイロットはまず使いません。かといってベテランパイロットはいざという決戦のときまで温存しておかねばならない。となると、もっとも特攻作戦にふさわしいのは、練度が低くても確実に戦果につながる若い士官です。
教育程度が高く、機械への理解が早い学徒兵は、特攻要員としてうってつけでした。
アメリカ軍の沖縄上陸を阻止するため、全国で特攻隊が編成されました。姫路海軍航空隊も例外ではなく、「白鷺隊」が結成されました。志願したのはほとんどが予科練の若者たち、海軍13期、14期の学徒兵たちでした。
当時の大学進学率は全体の0.4%、今でいうエリートでした。
大学生というだけで優遇された時代でしたが、当時の学生は単純に特権階級を意識しただけではなく、身分の高い者はそれだけ社会に対して返していかねばならない使命感、
「Noblesse Oblige = ノーブレス・オブリージュ」の精神を持ち合わせていました。
また、当時はゲマインシャフト(=gemeinschaft 地縁血縁で結びつく村落集合体のような伝統的な社会形態をさす)の時代であり、
現代のようなゲセルシャフト(=gesellschaft 国家や社会などによって目的合理的、計画的人為的につくられた集団や近代社会をさす )の世の中ではなく、共同体の中に「個」があり、個の幸せをねがうのはもちろんのこと、共同体の中に生きる者として愛する親兄弟、郷土のために、国家危急存亡のときには自己犠牲の覚悟が強いられました。
特攻を命ぜられた人にはそれぞれ、言うに言われぬ葛藤がありました。
自分の人生を全うしたい希望と、国難に赴かねばならない義務と使命感との乖離に苦悩しました。
しかし、どの青年も、最後は特攻要員としての運命を受け入れました。
――自分たちは死んでしまうかもしれない。けれど家族のために、故郷の人々のために犠牲になろう。自分の命とひきかえに何千倍、何万倍の日本民族をこの世に残せるのなら我々が犠牲になっても惜しくはない。
万葉集「海ゆかば」大伴家持の万葉の時代に里帰りするような使命感でした。
4月6日、菊水一号作戦が発令されました。
白鷺隊の特攻兵器として使用された飛行機は97式艦上攻撃機。
これは日中戦争以来使用され続けた、ゼロ戦よりも古い旧式でボロボロの飛行機でした。
出撃する前日、パイロットたちが何とか沖縄まで持ちこたえるようにと、整備兵は徹夜で作業します。部品を新しく取り替え、ガソリンを満タンにして、基地から送り出しました。
97式艦攻は、3人乗りでした。
特攻なら1人で充分だという意見もありましたが、「一蓮托生、死ぬときは3人一緒がいい」というのが隊員たちのたっての願いでした。
捨て身の特攻作戦むなしく、まもなく沖縄が落ち、8月には広島、長崎に原爆が投下され、日本はポツダム宣言を受諾、終戦を迎えました。
姫路海軍航空隊基地は幕を閉じ、紫電改はアメリカに接収、解体されました。串良基地から飛び立った白鷺隊は44機、63名が亡くなりました。
レイテ戦においてはじめて特攻作戦が発令されてから終戦までの間におよそ4500柱を超える前途洋々の若者たちが戦死しました。
自分たちの命とひきかえにしてでも守り抜こうとした戦死者の死を無駄にしないためにも、私たちはもうけっして特攻隊を編成するような世の中にしてはならないと思います。