岸和田東ロータリークラブ 国際ロータリークラブ第2640地区
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第1859回例会 1月16日(金)

卓 話


ロータリー情報・規定委員会として

奥   忠 道 会員



「ロータリーの創設者ポール・ハリス」

市俄古の北六十哩、ミルヲーキーの南二十五哩、北米第二位の大潮ミシガンの沿岸に、レイシンといふ小さな都市がある。レイシンの名が米国内に広く知れ亘って居るのは、此の市が幾つかの国家的に重要な製造工業を持って居るからである。併しレイシンの市民は製造工業にばかり没頭して居るのではない。其処にはレイシン大学を中心とする文教上の関心もあるのである。
此処の市民の中に最も光彩を放った二人の名士の一人に、第二次の市長に挙られた、ヘンリー・ブライアンといふ弁護士があった。ブライアンの父は紐育州西部の草分けの一人で、祖父はマサチエセッツの産、また曽祖父はアイルランドから移住した人であった。この曽祖父の時に偶々旧姓オブライエンを転化して、ブライアンと改称したといふことであるが、その理由の何故かは筆者とても知らない。
ヘンリー・ブライアンは、例の1849年の金鉱熱時代にカリフォルニア探検隊を組織して其の牛耳を取り、計劃財政万端を自分に引受けて成功を夢みたのであつたが、此の冒険の結果は、死後彼の未亡人に遺すに、唯だ小さな家庭以外の何物をも以てしなかったといふ有様であった。ブライアンの末娘はコーネリアと言って、ヴアーモント州ヲーリングフォードに住むハワード・ハリスといふ人の息ジョージ・エイチ・ハリスなる一商人に嫁した。
ジョージとコーネリアとの間の第一子はセシルと名づけ、その次男はポールと呼んで1868年4月19日の生まれであったセシルとポールとは、いつも一緒に近所の子供等と遊んだが、セシルは毎日腕白な弟の面倒を見ねばならなかった。よく浮か浮かと急な堤防などを下って、鉄道線路に彷ひ出たりしたものであるから、そんな時には、ポールを引張り上げるのに、近所の子供達が殆ど総掛りで努力しなければならなかった。



ポールにとって一番好い遊び場所は町の中央であった。当時は未だ道路規則などは必要でなかった時代であったので、ポールは自分勝手に、車馬の通行よりも子供の遊びの方を大事だと極め込んで居た。セシルはこの小さい弟の判断が間違って居ることを認めて、走って行く馬の蹄の下から、腕白な彼を攫み出さなければならないこともあったので、そうした時のセシルが大抵酷く引掻かれて痛い目を見せられたといふことは、ポールたるもの今日に於て大いに恐縮せざるを得ない所である。
ジョージとコーネリアとを拘束するものが仮りに幾つかあつたとして、その中で彼等両人の少しも構はずに居ったものは、節検とか吝嗇とかいふ事であったらう。二人ともに寔に申分のない消費者であって、家計予算などいふ観念は、彼等のたちどころに拒否するところであった。金は費ふべきもので、無くなったら儲ければ可いと云ふことが彼等の最も是認した方針であった。実際其の方針が続けられた間はまことに愉快であった、そして夙くに続かなかった筈のものであるのに、比較的其れが永続したといふことには理由があった。小切手を振出して簡単に消費するのはジョージ夫妻であったが、その小切手には、寛大ではあつたが同時に節倹家であったジョージの父、ハワード・ハリスの裏書が要求されて居たからである。レインの「マニユフアクチユラース・ナショナル・バンク」の社員等は、早くから此の緘黙の連帯責任者の署名を尊重することになって居たのである。
併ながら凡て良い事柄といふものはやがて終末に来るもので、ハリス一家のウィスコンシン州レイシンに於ける居住も打切られねばならぬ時が来た。
1871年7月の或る夜、ジョージ・ハリスは二人の子供を連れてミルヲーキーに出で、其処からバッファロー行の汽船「オネイダ」号に搭乗した。子供等は父の両親の家に行くのであった。コーネリアは独りレイシンに残って一時的の住居を定め、幼いニナ・メーの養育を計ることになった。ニナ・メーは後年デンヴアーの、今は故人となったルシーン・アポットに嫁いだ。
コーネリアは不如意なる事情が彼女の上に課した重荷を、勇気とそして彼女の貴い血統に応はしい高尚な目的とに立って、能く耐へて行った。

〈ロータリー創設者 ポール・ハリス 米山梅吉訳 第1編より〉



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