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『 卓 話 』 |
『 お茶の歴史 そのニ 』
西念陶器研究所
所長 西 念 秋 夫 様 (担当:山口英之会員)
「煎茶の流行」より
利休は名人相伝で子供につがすことはせず、弟子に流派を名乗らせたので、織部流、細川流、右楽流ができたのです。石州も名人相伝を貫き、不昧は不昧流を興します。大和小泉には石州の作った茶室が残り、菩提寺になって、慈光院として残りました。石州流は、徳川の崩壊と煎茶の流行で、次第に少なくなりましたが、侘の茶風はこの中に残っています。
煎茶は黄檗山万福寺を開いた僧、隠元が、中国明の煎茶儀式を伝えたことに始まります。文人風の流行で、抹茶は少なくなりました。茶道具も、煎茶用の急須等に変化して行き、木米や永楽は煎茶道具を得意としています。
宇治の永谷宗門は、青製と呼ばれる緑の茶を作る事に成功し、僧、月海(売茶翁)は、煎茶を庶民に広めました。この時から抹茶も緑となりました。
中国では青磁が大切にされました。それは黄色い発酵茶を入れると緑に見えたからです。しかし緑の茶を引き立てるには、白磁がよく、煎茶と共に白磁が求められるようになりました。万古焼は隠元のもたらした、煎茶道具をまねた弟、宜興の紫泥や朱泥の急須を作りました。
明治新政府は、日活、日露の戦争で朝鮮を併合し、伊藤博文らは、朝鮮の人々に、日本語を強制し、名前までも改名させました。しかし統治する日本の女性が、朝鮮と同じ立て膝による正座をしていました。そこで、大名や天皇の前でかしこまる形のすわり方を正座として日本人に強制しました。さらに、戦争未亡人の職を作る為、家元に、女性免状を出させて、女学校で茶道教育に当たらせました。この政策により、男性の茶が女性の行儀作法となってしまいました。
石州流では安座で挨拶をする形が残っています。浮世絵の女性が立て膝で抹茶を点てている絵が残っています。大名や公家の女性・尼僧は、立て膝で袱紗を敷いて、手の平の上で茶を点てていました。千家も明治以後家計が苦しくなり、千家を止めようと思われたそうで、九州の美術商の提案で、千家十職を復活させ、箱書きをするようになりました。
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