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『 トピック 』 |
入会式
松 下 明 希 子 会員 職業分類:証券業
2013学年度 米山奨学生のご紹介
氏名/沈 彦君様 国籍/中国
学校/桃山学院大学大学院
経済学研究科 修士2年
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『 卓 話 』 |
『 お茶の歴史 その一 』
西念陶器研究所
所長 西 念 秋 夫 様 (担当:和田史子会員)
「日本茶と茶入りの初まり」より
日本の人たちが、この茶と呼ばれる薬を呑んで無病息災を願いたいと思うようになりました。そこで、茶を日本で栽培しようと中国へ渡ったのが建仁寺の僧、栄西(ようさい)文治三年(1187年)でした。しかし中国ではこの茶の木は蚕と同様、国外への持ち出しは厳しく規制されていました。シルクを求めて西欧の国は、蚕の繭を、西域に嫁ぐ中国王姫の髪の毛に結い入んで、繭を国外へ持ち出したと言われています。茶も同様で、持ち出しは、命をかけた大仕事だったのです。見つかって命を取られては大変と、栄西は考えました。そこで中国漢方薬の軟膏入れに種をひそませて持ち帰ろうと考え、その内でも臭いのきつい、手で触りたくない薬の中に入れたと思われます。日本へ帰るまでの半月余り、やっと大宰府に着きました。早く都へ帰り、茶の種を植えなくては薬に侵されているかもしれませんでした。しかし朝廷もこのころ、いきなり京へ戻したら、又疫病が流行ると、一年間大宰府に足止めされてしまいました。仕方なく栄西は、真の肯振山(せぶりやま)に種を植えました。幸い、茶の種は薬にも侵されず芽を吹きました。そこで親友である栂尾高山寺の明恵(みょうえ)にできた種を送りました。明恵は薬壷に入って送られた茶の種を栂尾に植え、栂尾茶の元となりました。
他にも、この栄西がもたらした茶で産地となった処もありますが、肯振山の茶は石上(いわがみ)茶となりました。
中国より茶の種を入れて持ち帰った軟膏入れは、栂尾・高山寺に残されています。その蓋には、油紙の代わりに、象牙の蓋があつらえられ、茶壷(茶人)として抹茶に引いた茶を入れるようになりました。
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