岸和田東ロータリークラブ 国際ロータリークラブ第2640地区
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第1757回例会 10月19日(金)

卓 話

姉 弟 』 畑 田 率 達 会員


 今日は私の5歳上の姉について話を聞いていただきたいと思います。姉は、私が高校2年生の時に、10歳上の勤務医と結婚、これが、生物学者になりたかった私が医師を目指すきっかけとなりました。15歳上の義兄は、当時32歳で、豪胆、バンカラな人でした。お前も医師になれととの一言で、高2からの方向転換、人生甘くなく、浪人をしました。浪人することでダメ人間のレッテルを貼られ、話をしても、いつも子ども扱いで、みんなと仲良くしようとしたらしんどいだけや、自分と合う人間だけとつきあったらいいんだとずっと言われました。私が医学生の時、姉に子供が生まれ、子育ての応援に私の母は、義兄の留守を見計らって、出かけていました。しばらくして、義兄は勤務医から開業医となり、姉は開業医の妻として、子育てと医療事務を頑張り、姉の好きな淡路島が見える高台に自宅を購入しました。私が高校の時に、り患した母の乳がんが再発し、母は、病院に入院、末期癌のため、在宅医療を選択し、医院で、モルヒネ治療をはじめました。これがきっかけで、両親と一緒に住むようになりました。しばらくして、元気だった父が急に白血病になり、あっという間に亡くなりました。その後を追うようにして、まもなく、母が亡くなりました。あまりに大きなショックから、姉が突然、手足がしびれる、自分の体でないみたいなどと訴えながら、歩けなくなって、検査で、難病の多発性硬化症と診断されました。姉夫婦は、旅行が好きで、国内、国外、とわず旅行して、楽しんでいましたが、その姉が、とうとう寝たきりになりました。平成7年ぐらいの事です。その頃、姉の子ども達は、芸大生、医学生になり、義兄が仕事の時は、自宅に寝たきりの姉しかいなく、姉のため、2交代で、24時間の家政婦さんを入れました。足が動かないことへのいらだちで、義兄に暴言をはいたり、家政婦さんに不満を言ったり、子供たちに死にたいと言ったりで、不穏になっていく姉を心配し、私は何度も見舞いにかけつけました。
 私が傍にいるだけで、姉は落ち着きを取り戻し、普段のやさしい姉に戻ることが出来ました。なんとかして辛い自覚症状を取ってやろうと、私は漢方薬を処方したり、藁をもつかむような気持ちで、有名な気功の達人に治療を依頼したりもしました。そんな中で、姉は、二人の子ども達の結婚式に、車いすで参列し、結果、5人の孫に恵まれ、姉の周りに孫たちが集まり、騒がしい中でも、祖母としての幸せな姉の顔がありました。義兄は、いつも、姉を『Aちゃん』と呼びます。時には『はぁい』と返事もしますが、『だ〜れ』とまだらボケのときもあります。息子夫婦が成長し、主治医として姉を診ることが出来るようになり、糖尿病の管理、排尿障害でのカテーテル管理、骨粗しょう症の治療などもしていました。入退院を繰り返しながらも、17年もの間、大好きな自宅で、ときに泣いたり笑ったりしながら、家族の大きなやさしさに包まれながら過ごさせてもらっていることが、弟としては、心から嬉しく、義兄に会うたびに、「なかなかできることではない」と感謝の気持ちを伝えていました。24時間の家政婦さんをつけて、17年間、義兄は一財産をなくしたと思います。今年8月5日、夏祭りに、姉の子ども夫婦と孫たちを故郷に招待し、花火大会、夜店に連れて行きました。花火の強烈な印象、夜店でゲットしたミドリガメのこと、帰りの車の中で、ワイワイと盛り上がったこと、姉に楽しかった写真を見せたこと、楽しい思い出になったこと、また一つ故郷が好きになりましたと姪夫婦より、メールが届きました。よかった!と思った矢先、8月7日の朝9時4分、姪からメールが入りました。『いま救急車 きとく』文言はこれだけ、常日頃、もしもの時には蘇生しないと家族で決めていたので、とうとうその時が来たかと覚悟を決めました。9時23分『今朝急変心肺停止 今蘇生して病院』 このメールを見て、外来をすまし、昼から、病院へ駆けつけました。姉はICUに入り、挿管され、人工呼吸器に、自発呼吸なく、意識なし、血圧も低く、全身痙攣みられていました。急変時、姪が側にいて、突然の呼吸停止に、紫色になっていく母をみて、思わず、心マッサージをし、かけつけた弟の嫁の医師がマウスツーマウスで人工呼吸して、病院へ救急搬送されたことが判りました。
 甥と姪は母(姉)へのこれ以上の延命がかえって母を苦しめるのではないかと自問自答し、激しく治療方針について、意見を戦わせ、喧嘩していました。父親としての義兄はただただ茫然として、電気もつけず、ぼーとして窓から海をながめている状態でした。『この広い家にわしは一人になるのや』とボソッと言って、『一人になったら、車に乗って壁に激突するか、崖から落ちて死ぬんや』なんて言ってました。低空飛行のまま、1か月が経過し、8月30日、14時38分、遂に、病室で義兄が、一人見守る中、姉は息を引き取りました。8月31日18時より家族だけでの通夜、8月31日午前10時30分より葬式となりました。17年も寝たきりの姉は友人との交流もなく、友人との連絡も途絶えていたため、ごく内輪だけでの家族葬で式をあげることしました。
通夜には、姉の子ども達はドライアイスで冷たくなった姉の布団の中に、それぞれの足を入れ、姉と一緒に、朝まで線香をたきながら添い寝をしていたとそうです。義兄は自室に閉じこもったまま、翌日の葬式には、見るからにやつれ、虚脱状態で、しっかり立つこともできず、また、納棺した後も、最後のお別れにと声をかけられても、義兄は棺桶の傍に寄ることもできません。どんなときでもパワフルで、弱いところなど見せたことのなかった義兄が、大声で、身体をうちふるわせながら、ワーっと泣いていました。義兄は、ドライで、割り切りの強い、どちらかといえば傲慢なエゴイストだと思っていたのが、最後の土壇場で、17年もの間、自宅で、姉を看てくれていたのは仕方なしなんかではなくて、妻であり、母である、姉を本当に深い愛情で見守ってくれていたのだと悟りました。一時期、愛情はないのではないかと疑っていましたが、そんな自分を心から恥じました。
 17年間も看てくれた大恩ある義兄が、その後、うつ状態となりました。一人にしていたら何をするかわからない状況で、こんなまま、ほっておくのは許されることでなく、弟として、義兄が以前の、元気な義兄にもどるまで、見守っていきたいと考えております。
 10月14日、無事、自宅で49日の法要が終わり、そのあと、姉の大好きだった故郷(海の見える高台)のお墓に納骨をすませました。義兄の愛車、真っ赤なキャデラックが無いので、尋ねてみると、壁にぶつかり大破させたとのこと、本当にほっとけません。長く付き添った妻の介護生活が長かった故に、人生の大半をある意味犠牲にして、これも人生と言っている義兄に、これからの人生、自分のために生きてもらいたいと心から願っております。8月から、突然起こった姉の急変に、覚悟していたこととはいえ、周りの人に心配かけないように、淡々と仕事をこなし、ロータリー例会出席などの時にも、ご報告せず、また、心乱れる中で、笑うこともできず、大好きな釣りのお誘いにもこたえられずにいました。誠に申し訳なく思っています。お許しください。
 最後に、弟として、義兄に感謝と尊敬の念をもちまして、姉を偲ぶことといたします。