岸和田東ロータリークラブ 国際ロータリークラブ第2640地区
2007〜2008年度RIテーマ
更新履歴
クラブ運営方針
行事予定
役員・委員会構成
委員会活動
会長の時間
例会より
制作:資料管理・OA委員会
 

第1720回例会 1月13日(金)

『 トピック 』

【1月度 会員誕生日】



岡本平仁会員/杉本和也会員

【財団法人ロータリー米山記念奨学会より、
 米山特別寄付金に対しての米山功労者感謝状】




第4回マルチプル 西村  進 会員
         深井 正夫 会員
第5回マルチプル 辻林 一郎 会員
第6回マルチプル 坂東 桂子 会員
第7回マルチプル 大石 武徳 会員
第9回マルチプル 岩出 正次 会員

『 卓 話 』 

【傘寿を迎えて】 中 井 義 尚 会員

 日本には年祝いという習慣があります。奥会長から年頭にあたって年男(辰年)の会員が不在とのことで、谷川会員の喜寿のお祝いと私がその代役をつとめます。
年祝いとは・・・





 私は今年6月に傘寿になります。これを機会に自分のロータリー活動をふりかえります。
 還暦は1992年に迎えましたが、90−91年度、当クラブの第15代会長を終え、その年から地区の委員会に出席しています。地区規定情報委員長を3年、地区世界友情交換委員長を4年勤めました。90年代は私の60歳台で、自分でも一番よく勉強もし、よく遊び、最も良く活動した10年間でした。70歳台になってすこしづつ気持も体力も衰えがはじまったかなという実感です。クラブ内でも、情報委員会、国際奉仕委員会での働きが多かったようです。
 ロータリーの会員として35年、心の中はいつもロータリーから奉仕の理想を学ぼうとし、自分の医師としての仕事を深めるよう生きてきたように思います。1980年台から約20年ほど、関西ロータリー研究会に浜中元会員と出席したことは、ロータリーを深く理解することに大きく役立ったと自覚しています。
 先述しましたが、60歳台が人生で一番活気のある10年です。50−60歳台の会員がクラブの中心となってクラブの志気を昴めてほしいと思います。ロータリーがどのように変化しても、岸和田東クラブは私自身一番好きなクラブですので、更に会員を増強するようみんなが努力して欲しいと思います。


【 「喜寿」を迎えて〜私の生まれた頃のロータリー〜 】 谷 川  泉 会員

 明けましておめでとうございます。
 私は1935年(昭和10年)3月15日生であります。現在、数え77歳、3月15日で満77歳になります。それに因んで、当時のロータリーはどんな状況であったかを検索しました。
 1934−35年度 
 RI会長はロバートE・リー・ヒル米国
 会員数 150,000名、
 国数 76 
 国際大会は1935年6月17日〜21日、
 メキシコシティー、
 登録者数 5,330名でした。
 この時ロータリーの6つの綱領が4つに減っております。
この時、1935年、第5回太平洋地域大会がフィリピンのマニラで開催、これに出席するRI会長ヒル夫妻の一行と共にポールハリス夫妻が途中日本へ立寄るという知らせがありました。東京では委員会を設けて歓迎の準備をしていたが、乗船していたプレジデント・クーリッジ号が荒天のため日本到着が非常に遅れ、予定の3日遅れの2月9日午前5時となりました。横浜で小憩後、東京帝国ホテルで記念植樹をして、芝公園内の紅葉館に於いて純日本式の午餐会に臨席し、夜は東京、横浜両クラブの歓迎晩餐会が東京会館で催されました。歓を尽くす間もなく横浜でその夜乗船し、直ちに神戸へ出発しました。
 京阪神でも予定の日程は全部ご破算となり、2月10日午前中は京都へ案内し、京阪神3クラブ合同の歓迎午餐会は新大阪ホテルで開かれて150名が出席しております。その夜すぐに神戸港をマニラの太平洋地域大会に出席のため出航しました。この時、日本から14名が参加しております。この大会に於いてポールハリスはとくに“He profits most who serves best”にふれ、その profits はドルでもセントでもなく、それは人生の something だと強調しました。また、1935年5月5日、第7回第70地区年次大会が京都の朝日会館に於いて参会者823名という多数を記録して未曽有の盛会となりました。
 この年次大会で東久邇宮殿下も出席され、席上新作の日本語のロータリーソングの発表があり、前田和一郎作詞、東京 荻原英一作曲「奉仕の理想」など4曲発表された。
 この頃より軍事色が強くなり、一般に関心をもたれていなかったロータリーに対しても問題が起って来ました。右傾団体より排撃の決議、ユダヤの秘密結社フリーメイソンと関係があるとか、マルクス主義批判を聞いて会報に掲載したことで警察に呼び出されたこと、国粋団体が例会場にあばれ込まんとしたことなどがあったそうです。
 その頃、1939年7月、日満ロータリー連合会が発足、会長に米山梅吉氏が選出され、1938年3月、国家総動員法が成立、大政翼賛会が創立するなど、ますます軍事一色となって来る。例会に憲兵や警察の特高係がしばしば参席し、例会のスピーチもあらかじめ内容を警察に届け出なければならないことになり、クラブもその精彩を失ってしまった。
 1940年8月10日、岐阜における地区協議会を前に各クラブでは存続について議論が沸騰した。ところが米山梅吉氏は軍当局に呼び出され、ロータリーの組織機構は日本帝国に対する反逆であると極言され、国際ロータリー離脱を決意、これにかわる新しい団体を組織することを決定した。
 国際ロータリーはすでに1937年に、その理事会は国家有事中のロータリー活動として「ロータリーは常にその国の忠実な愛国者であることが第一義務であることを認識して、国家有事の期間、ロータリーをその国に保存する可能性あり、適当であると考える方策を取ることが義務でなければならない」と決定していた。
 その後、ぞくぞくと各地のロータリークラブは解散した。1949年国際ロータリーに復帰するまで東京水曜クラブ、大阪金曜会、神戸木曜会、福岡情和会など17クラブが名称を変え存続した。
 最後に1935年ポールハリスは「THIS ROTARIAN AGE」に日本語訳で「ロータリーの理想と友愛」を出版されています。
 最後の文章に「ロータリアンが身分の上下と貧富、人種、宗教、政党にかかわりなく、みんなの親善使節であり続けますように。この心地よい小さな世界、私たちのよく知っている最高の小世界の住人に寛容、慎み、正義、親切、友好、友情を届けることが出来ますように」と記載されていることを紹介させて頂きます。