岸和田東ロータリークラブ 国際ロータリークラブ第2640地区
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第1702回例会 7月29日(金)

『 私の履歴 』 齊 藤 一 典 会員 

 皆さんこんにちは。先日の納涼例会大変お疲れ様でした。本日は大変僭越ではございますが、私の履歴という事で話をさせて頂きます。今回、この話をさせて頂くことによって、先祖、祖父母、両親を思い返し、先日の畑田先生のように、自分のルーツを考え、眠っていた記憶を思い起こすことができたことに感謝します。それでは、よろしくお願い致します。私は、昭和42年生まれですので、岡本さんと同学年になります。良き昭和の時代に育ちました。
 生まれは、神奈川県川崎市の市民病院で生まれました。よく子供のころ母親から、生まれるときはしんしんと雪が降っていたと言われ、二月という月のイメージが、雪で寒いというものになっていました。ですので、皆さんもそうかと思いますが、同じ二月生まれの方にはとても親しみを持っています。(ちなみに岸和田東ロータリークラブは2月生まれの人が多いです。)
 父親の出身は茨城県の土浦で、競輪の選手になろうと川崎競輪を目指し、上京したと言っていました。その後、競輪選手は断念し、当時の日本鋼管の下請けの運送会社で働いていました。母親は、群馬県の下仁田で、二人とも関東の地方出身でした。当然ですが、裕福ではありませんでしたので、少しでも広い家に住もうと中学まで4回も引越しをしました。当時は公団住宅が全盛で二歳のときに一回目の引越しで、川崎から茨城県の取手の大型団地に引越しました。当時の取手は本当の田舎で、朝起きて網戸を開けると緑色の小さい虫が網戸にびっしりついていた事をよく記憶しています。そして、まず朝は網戸からその虫を振り落とす作業をしていました。また、父親と近くの川沿いの林に栗を取りに行き、草むらではバッタやこおろぎをよく取っていました。幼稚園では、カトリック系でしたので、クリスマスの礼拝で自分が持っているロウソクの火が消えて、隣の友達につけてもらうようにした事や、ゴレンジャーごっこをしていて、誰もなりたくない女役の桃レンジャーにさせられたことなど、鮮明に覚えています。また、今のように大型ショッピングモールなどはなかったので、近所のスーパーに行くことが楽しみの一つでした。そして、よく川崎大師にお参りに行きました。お参りの道すがら、戦争で負傷され帰ってこられた方々が、アコーディオンを弾いていた事を覚えています。
 父親は、取手から川崎への通勤が大変だったのか、二回目の引越しで、小学校一年から、横浜の今の桜木町(今ですら、みなとみらいとして開けていますが)の小学校に通いました。当時、通学路がビルの中を通るために、何人もの浮浪者が道の両側を占有していたり、近くに競馬の場外売り場があったり、風俗の店がたくさんあったりで、ある種とても微妙な環境で育つ事が出来ました。両親もさすがに教育の環境面を考えたせいなのか、二年後の三年生から、三回目の引越しで同じ横浜の南区の弘明寺になりました。ここも公団の大型の団地でようやくゆったりと落ち着けて、生活ができる環境でした。不思議な事に、生活が安定していると、記憶はあるのですが、衝撃的な記憶がないため、普通に楽しく小学生三年から中学一年までを過ごしました。
 四回目は今の実家ですが、初めて分譲の公団で賃貸生活から脱却しました。同じ横浜の金沢区の富岡です。皆さんは八景島シーパラダイスの水族館で馴染みがあるかもしれません。ここで、初めての試練がやってきました。いじめです。私は転校生で少し生意気だったので、すぐに番町グループから目を付けられ、大変な目にあいました。今でも、よく毎日めげずに学校に行っていたと思います。自慢ですが、幼稚園から高校まで学校を休んだ事は一日もありませんでした。(健康な体に生んでくれた両親に感謝ですが)それから、先日演舞させて頂きました、私の空手人生が始まります。ただけんかに強くなりたい、見返してやりたい、それだけの為に、ほぼ毎日、中学での部活動を終え、電車に乗って空手道場に通いました。当時は、水分補給などはなかったので、稽古が終わるとトイレの横のあまりきれではない手を洗う水道の水をがぶ飲みし、家に帰ると水でお腹がいっぱいになり、食事が取れないほどでした。こうして二年が経ち、まだまだ精神的にも未熟だったため、番町グループには丁寧なお返しをさせて頂きました。
 高校生活は、まったく勉強をしなかったので、裏腹ですが大学は横浜市大の医学部に行きたいと高い希望だけはありました。(小学校のときの野口英世とシュバイツアーの伝記と親戚が皆医者だったからです。)当然勉強しなかったものですから、撃沈しまして二年間の浪人生活の後、医学部志望から文化系へ転換し、明治大学の政治経済学部に入学しました。大学では、友人に大きく影響を受けました。大学のゼミの友人ですが、アメリカに二年間遊びに行っており英語はぺらぺらで、いろいろな事にも長けているので、負けず嫌いの性格により、彼のマネをして単身アメリカのバックパック旅行に出かけようと思い行動しました。必要最低限のお金だけ持って、飛行機だけ取って、泊まるところは現地に行ってから決まるやり方です。大学に在学中ではあったのですが、まずは、お金をためるために朝3時半から魚市場での魚の仕分けをし、宅配弁当の配送をし、夜は高級クラブで働き、目標の実現の為、必死で働きました。今考えれば無謀以外の何者でもなかったのですが、1989年に始めての海外で、最初にNYのJFKに夜8時ころに着きました。とりあえずマンハッタンまでバスで行き、どうやってどこでバスを降りたらいいのかがわからずに結果的に途中で降りる事が出来なくて、終点の42St、8AVのポートオーソリティーで夜の10時でした。そして、バスを降りて右に行ったらいいのか左に行ったらいいのか、前なのか後ろなのか、生まれて初めて後悔と顔が引きつる思いをしました。今と違って当時のNYはかなり治安が悪く、特にポートオーソリティーは良くない場所でした。何とか安宿を見つけたのですが、全く英語が通じず、連続の宿泊は1週間に限定されていて言葉が理解できなかったので、何でだめなんだと本当に不安になっていました。夜通し鳴っているパトカーのサイレンの音や、当然シャワーもトイレも共同なので、本当にビビリながら朝を迎えました。今、自分の居るところは別な場所でただ映像を見ているだけなんだと思いたくなるくらいでしたが、人間の本能でおなかが減り、デリカテッセンに入り、自分の順番が来てNEXTと言われた瞬間に映像から実際に自分はここに居るんだと確信が出来ました。また、お金が少なくなり、空港のベンチで寝袋で寝たり、安宿で宿泊料を何回も値切ったり、チャイナタウンで惣菜を買って何日も暮らしたり、パンを何斤も買い、アメリカ特有のビン入りマヨネーズだけを付けて何日も食べる日々だったり、マイアミではフルーツが安いので果物ばかりを食べたり、いろいろな事がありましたが難なくこなし、メンフィス、マイアミ、フォートランダーデール、キーウエスト、サンフランシスコからヨセミテ国立公園を経て、ラスベガスからサンディエゴに入り、メキシコのティファナに行き1号線を北上し、ロスアンジェルス、サンタバーバラ、モントレーまで足を運びました。
 更に、アメリカ、メキシコでは飽き足らずに二回目のバックパック旅行で、1991年ちょうど湾岸戦争のときにカナダ経由で南米に行きました。いきなりトロントのイミグレーションで別室に移動され、なぜこのあと南米に行くのだと2時間止められてしまいました。ちょうど湾岸戦争時だったので、とても怪しく思われたのかもしれません。やっと英語でのコミュニケーションが出来たのですが、南米チリでは当然スペイン語しか通じず、行ってすぐに下痢の洗礼を受け、トイレットペーパーが離せない生活になりました。首都サンチャゴは、チリが長い間軍事政権であったため政権に反対する人たちに対する圧迫が厳しく、片足、片腕のない人が両替の仕事をしているのが印象的でした。そして、すぐに言葉にも慣れ、現地の老夫婦に二人の田舎に誘われ、サンチャゴよりバスで4時間、ダンプカーのヒッチハイクで1時間、徒歩1時間の秘境で少し生活をしました。とにかく田舎ですし、何もありません。一番笑ったのが体を洗うときですが、当然シャワーはありませんのでバケツに井戸水を汲み、天井に上げてホースでシャワーをしろと説明されたのですが、水が出てきません。ホースの口を一回口で吸うと水が出てくるのです。あーなるほどなと、本当に単純なことなのですが、やってみないとわからない事を体験できました。老夫婦との別れは本当に悲しく、帰りのバスの中ではずっと号泣していました。この後、アルゼンチンに行き、いきなりマスタードをかけられドロボウにあいそうになりました。首都ブエノスアイレスは16世紀のヨーロッパの印象で国民のプライドが高い国でした。ただ、強烈なインフレでしたので、週末、週初銀行が長蛇の列になるのです。自国通貨の信認が置けないので、銀行に行って全財産を週末ごとにドルに交換しているのです。ここでは、ユースホテルに長期滞在したのですが、世界中の若者から大人まで集まっていて飲み会は圧巻でした。英語圏の集団とスペイン語圏の集団が混ざり合い壮絶な飲み会で大盛り上がりしました。ここで、純粋なブラジル人と別の日系ブラジル人3世の友人ができ、それぞれブラジルでの再会を約束しました。また、南米特有の高熱にうなされていた数多くの日本人を病院に運びました。たいていの日本人はコミュニケーションと言葉に悩まされており、病院に行くことも躊躇していたのです。その後、世界三大瀑布のひとつであるイグアスの滝に行き、ブラジルを南から入りました。当時のブラジルは世界の中でも有数の治安の悪い国でした。フロリアナポリスでは、現地で知り合ったアメリカ人の女性になぜ日本は湾岸戦争に参加しないのかを聞かれたこと、壁についている野生のヤモリ何匹もと一緒に暮らし、サンパウロではリベルダージという日本人街で日本の先駆者の功績を目の当たりにしました。また、約束をしていた日系ブラジル人の家に招待され、まさに驚きの南米での刺身を食べさせてもらいました。結構おいしかった事をおぼえています。また、彼ら彼女たちが通っていた優秀なサンパウロ大学に行き、日系ブラジル人がたくましく生きている事を感じました。その後、ベロリゾンチでは体のごつい女性系の話し方をするお兄さんに誘われたり、オイロプレート(ここは水晶の産地で、アクアマリン、アメジスト、トパーズ、ルビーなど数多くを算出しています。)で、宝石に目覚めたり、そしてリオのカーニバルで有名なリオデジャネイロでよくテレビに出ている海岸線の景色でキリスト像の丘(コルコバードの丘)でリオを体感し、ユースホテルではシャワーが壊れていてスコールが来るのを待って体を洗ったり、現地でブラジル人に再会し、彼の家に通常では入る事のできないファベーラ(スラム街)に行ったりもしました。
 こうして、大学までに自らの意思で行動しないと何も進まない事を学び、現在の基礎となる人格が形成されたのだと思います。会社人生については時間がありませんので、省略させて頂きます。
 最後に今、思っていることは、自分がこうして生きている事が出来るのは先祖に感謝をし、そして多くに人の出会いに支えられ、多くを学び、心の軸となる空手があったからだと思っています。私の属している新極真会は弊社よりもグローバルで加盟国79カ国、総会員数8万人なのです。ですから将来的には日本の子供たち、世界中の子供たちに空手を通して強い心を宿し、心の軸を持つことができれば、そして笑顔を持って暮らせる世界を作る事に少しでも貢献できたらと真剣に考えています。また、ロータリーを通じて奉仕の精神を強く持ち、今後に生かしていきたいと思います。本日はありがとうございました。